2006年05月20日
【インド旅行記03】混沌と無秩序
インドには、確かに混沌を混沌として許容する懐の深さがあるように思う。ルールを作ることで秩序を維持しようとするより、ルールなどにしばられることなく互いに主張する余地を残したほうが、争いは起こらないという暗黙のルールがあるようにすら思う。
典型的なものは交通ルールだ。車のクラクションは、インドではクレームや危険接近の伝達手段ではなく、ウィンカーの代わりであり、存在を知らせる親切なものであったりする。
とにかくうるさい。穏やかそうに見えるドライバー でも、平気でクラクションを鳴らしまくる。
車線はいちおうあるものの、あまり有効に機能していない。平気で車線をまたいで抜いていくし、隙あらば、クラクションを鳴らしながら、対向車線を大幅にはみ出しても抜いていく。対向車線を車が向かってきても、少し避ければ抜くスペースがあると判断されるなら、平気で進んでいく。よく事故が起きないなと感心する。ドアミラーは、折りたたんであるか、あるいはもげている。そのスペースがもったいないとでも言わんがごとく。
しかし、そこにはある種の信頼関係があるような気もする。そんな道路でも、悠然と自転車は走っているし、後ろを振り返ることなく、手を出して合図したかと思うと、まるで車のごとく、右折のために道路を横断する(インドは日本と同じ左車線、右ハンドル)。後ろから追突されることは想定していないか、あるいはきちんと避けてくれるだろうと信頼しているかのようだ。不幸な事故が起こったとしても、あきらめがつくというのだろうか。後ろや横を気にしすぎては、たぶん5分間もデリーの町を運転することはできない。
成田に戻り、羽田空港までリムジンバスに乗った。整然とした交通ルールのもと、整然と走っていく自動車やバスやトラックをみる。タルコフスキーの映画に出てくるような近未来の秩序社会に迷い込んだ気がした。
典型的なものは交通ルールだ。車のクラクションは、インドではクレームや危険接近の伝達手段ではなく、ウィンカーの代わりであり、存在を知らせる親切なものであったりする。
とにかくうるさい。穏やかそうに見えるドライバー でも、平気でクラクションを鳴らしまくる。
車線はいちおうあるものの、あまり有効に機能していない。平気で車線をまたいで抜いていくし、隙あらば、クラクションを鳴らしながら、対向車線を大幅にはみ出しても抜いていく。対向車線を車が向かってきても、少し避ければ抜くスペースがあると判断されるなら、平気で進んでいく。よく事故が起きないなと感心する。ドアミラーは、折りたたんであるか、あるいはもげている。そのスペースがもったいないとでも言わんがごとく。
しかし、そこにはある種の信頼関係があるような気もする。そんな道路でも、悠然と自転車は走っているし、後ろを振り返ることなく、手を出して合図したかと思うと、まるで車のごとく、右折のために道路を横断する(インドは日本と同じ左車線、右ハンドル)。後ろから追突されることは想定していないか、あるいはきちんと避けてくれるだろうと信頼しているかのようだ。不幸な事故が起こったとしても、あきらめがつくというのだろうか。後ろや横を気にしすぎては、たぶん5分間もデリーの町を運転することはできない。
成田に戻り、羽田空港までリムジンバスに乗った。整然とした交通ルールのもと、整然と走っていく自動車やバスやトラックをみる。タルコフスキーの映画に出てくるような近未来の秩序社会に迷い込んだ気がした。
Posted by 仲村オルタ at 22:28