2017年04月01日

「騎士団長殺し」と物語の必然性

 村上春樹の新作「騎士団長殺し」を、1.5回の沖縄往復の飛行機(一度は片道)で読んだ。いろいろと思うところがある。
 僕は筋金入りではないにしても、そこそこの「ハルキスト」だと思う。小説はすべて読んでいる。村上春樹作品への批判についても、その都度反論すべきところは反論する。すっかり停滞している自作にも、少なからずこれまで影響を受けている。もっとも多感な頃に読んだ「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」や「ノルウェイの森」や「ダンス・ダンス・ダンス」はいずれも読後に何かに打たれるほどの衝撃を感じ、その後しばらく引きずったものだ。
 そこでこの新作である。以下ネタばれは厳密に言えばあり。

 「騎士団長殺し」と物語の必然性

 一読して、「この物語は物語られるべき必然性があるのか」と感じた。起こる出来事についても、いわゆる「行きて帰りし」物語で、日常の延長でなにも起こらなかったと言えば何も起こらなかったとも言える。つぎつぎと起こる超常的な出来事や少しずれた登場人物もみな、蓋然性はあったとしても(それは極めて恣意的なものだが)、必然性を感じ得ない。そのため、これまで何度も描かれている「穴」をめぐる冒険も、主人公が不思議と女にもてて性行為(それはおそらく意味のある性行為なのだろうが)の相手もいとも簡単にみつかることも、恣意的な要素としてしかこの目に映らない。この物語のなかで描かれるべき絵について作者が言及していることが皮肉に思える。作者はこの小説で何を言いたいのだろう。いや、果たして何かを語るべきときでなければ、物語は描かれるべきではないのだろうか。いろいろと考える。
 本作は少なくとも途中までは結構楽しんで読んでいた。あらためて村上春樹の描く世界がデビッド・リンチ的であるように思えたし、どこか「ダンス・ダンス・ダンス」に近い肌触りを感じたりもしていた。が、読後に衝撃もなく、創作物はなぜ物語られるべきかという堂々巡りの禅問答ばかりが頭に沸き起こるのだ。
 それでも、村上春樹のファンとして、この次も読むだろう。途中で放り出すこともなかった。次は連作短編が読みたい。ひょっとしたら、長編を書く体力の問題なのかもしれない。

  • LINEで送る

同じカテゴリー(書評)の記事
「李歐」のこと
「李歐」のこと(2014-05-12 22:57)

リヴィエラを撃て
リヴィエラを撃て(2014-03-30 11:37)

虐殺器官
虐殺器官(2010-12-17 22:12)


Posted by 仲村オルタ at 09:40
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

マイアルバム
プロフィール
仲村オルタ
仲村オルタ
職業:書き物一切。
職人のごとくただ書くのみ(としたい)。
公式サイト alt99.net
台湾より沖縄復帰後1年で関西へ。まさかの東京暮らしを経て、流れ流れて今は沖縄暮らし。
オーナーへメッセージ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 11人
アクセスカウンタ