2010年10月06日
ソウル・モラン市場にて
カタギ仕事の出張でソウルに出掛けた。韓国へは1年半ほど前に釜山に行って以来となる。すっかり南国仕様の身体になってしまった僕にとっては、肌寒い10月のソウルの出張は少し応えるものだ。それでも仕事の合間に、蓮の文様の溢れる寺院や仁寺洞あたりを散策するのはとても楽しかった。
仕事も終えて帰沖の日に少し時間があったので、地下鉄を乗り継いで、ソウル郊外のモラン市場まで出掛けた。ここは食用の犬が売られているという市場だ。かつて犬を飼っていたこともある僕にとっては、犬を食用にするということは考えられないが、それが売られている市場というのは物書きの端くれとしても興味が湧く。早朝にホテルをチェックインして、リムジンバス乗り場のあるソウル駅前に荷物を置いて、地下鉄線を三つほど乗り継ぎ一時間ほどかけてモラン駅へたどり着いた。
そこでは確かに犬が売られていた。
檻籠のなかに、処狭しと犬が詰め込まれている。ある犬は悲痛なまでの声で泣き叫び、ある犬は諦めたように伏せて眠っている。既に加工され、切り落とされた肉も並んでいる。そういう店が何十軒と並んでいるのだ。店の売り子はハングルで声をかけてくる。薦めているのだろうが、何を言っているのかもわからないので、ただ手と首を振るだけだ。写真など撮れる雰囲気ではない。正視すらできない。
犬たちとともに、鶏、黒山羊、家鴨なども売られている。それらは我々がタブー視せず食用にしているものばかりだ。それを見て、僕は犬を食用にすることを責めることなど出来ないと思った。鶏は食べてもよくて、犬は食べてはいけないと決める基準はなんだろう。結局は習慣であり、脳で処理しうる反応に過ぎないのだ。そこに我々人間が陳列され、怪物どもが物見で訪れたり値踏みすることだってあり得るのだ。僕はひどく落ち込み、暗い気持ちで市場を離れ、地下鉄を乗り継いで空港に向かった。
あれから一度人間たちが売られているマーケットの夢を見た。興味本位で訪れる場所ではないかもしれないが、一方で必ず見るべき場所のような気もする。しばらくは手を合わせ、目の前にあるものを食する奇跡に感謝するだろう。しかし、哀しいかな人間は忘れてしまう動物だ。僕はときどきこの大切なことを思い出すために、この文章を記す。
ソウルの地下鉄の車内にはいまも唐突に物売りの声が響き渡る。このたくましさ。このしなやかさ。韓国の強さを感じると同時に、制御され統制され個人化した日本を強く憂うのだ。
仕事も終えて帰沖の日に少し時間があったので、地下鉄を乗り継いで、ソウル郊外のモラン市場まで出掛けた。ここは食用の犬が売られているという市場だ。かつて犬を飼っていたこともある僕にとっては、犬を食用にするということは考えられないが、それが売られている市場というのは物書きの端くれとしても興味が湧く。早朝にホテルをチェックインして、リムジンバス乗り場のあるソウル駅前に荷物を置いて、地下鉄線を三つほど乗り継ぎ一時間ほどかけてモラン駅へたどり着いた。
そこでは確かに犬が売られていた。
檻籠のなかに、処狭しと犬が詰め込まれている。ある犬は悲痛なまでの声で泣き叫び、ある犬は諦めたように伏せて眠っている。既に加工され、切り落とされた肉も並んでいる。そういう店が何十軒と並んでいるのだ。店の売り子はハングルで声をかけてくる。薦めているのだろうが、何を言っているのかもわからないので、ただ手と首を振るだけだ。写真など撮れる雰囲気ではない。正視すらできない。
犬たちとともに、鶏、黒山羊、家鴨なども売られている。それらは我々がタブー視せず食用にしているものばかりだ。それを見て、僕は犬を食用にすることを責めることなど出来ないと思った。鶏は食べてもよくて、犬は食べてはいけないと決める基準はなんだろう。結局は習慣であり、脳で処理しうる反応に過ぎないのだ。そこに我々人間が陳列され、怪物どもが物見で訪れたり値踏みすることだってあり得るのだ。僕はひどく落ち込み、暗い気持ちで市場を離れ、地下鉄を乗り継いで空港に向かった。
あれから一度人間たちが売られているマーケットの夢を見た。興味本位で訪れる場所ではないかもしれないが、一方で必ず見るべき場所のような気もする。しばらくは手を合わせ、目の前にあるものを食する奇跡に感謝するだろう。しかし、哀しいかな人間は忘れてしまう動物だ。僕はときどきこの大切なことを思い出すために、この文章を記す。
ソウルの地下鉄の車内にはいまも唐突に物売りの声が響き渡る。このたくましさ。このしなやかさ。韓国の強さを感じると同時に、制御され統制され個人化した日本を強く憂うのだ。
Posted by 仲村オルタ at 22:10