2010年09月20日

町議になったある男のこと

 はじめてT氏にあったのは、台湾花蓮市公所(市役所)の市長室のなかだった。彼は市長室の隅にテーブルを置き、どこかぶっきらぼうな態度で僕を迎えた。僕は少し警戒しながら、彼から与那国と花蓮の25年に及ぶ姉妹都市の歴史を聞いた。与那国町から単身派遣された彼は驚くことに中国語がほとんど話せない。「要するにハートがあれば大丈夫」と言い、ところ構わずメモ用紙をもらって、筆談を始める。文字通り筆談外交だ。3ヶ月が過ぎ、半年が過ぎる頃には、彼の理解者が現れ始めた。更に友人が友人を呼ぶ。彼が居なくても、与那国のことを熱く語る男達(其の大半が台湾人)が増えていた。

 与那国と台湾との距離は111kmあまり。年に数回与那国からは台湾が見える。高校がない島は、一度出て行ってしまったら、仕事がないためなかなか戻れない。人口は1500人を下回った。

 僕は彼の協力者のひとりとして、チャーター飛行機やチャーター船を花蓮-与那国間に就航させるためのお手伝いをした。成功すれば、プロジェクトXものだったかもしれない。しかし、成功すれば、今も彼は町役場職員だったかもしれない。彼は当時の町長と対立し、町役場を辞めて、町長選挙に出た。自衛隊誘致が争点となった去年の選挙だ。結果は敗北。僕も、花蓮にいる彼の兄貴的な存在(僕の兄貴的な存在でもある)のKさんも残念そうだった。

 その後、Kさんも花蓮市役所を去り、僕も台湾を去った。彼は、役場どうしの交流に見切りをつけて、民間レベルの経済交流をすべく社団法人をつくる。そして、人の交流につながるべく、効果のはっきりする肥料の輸入を試みた。与那国は離島ゆえに、物価が沖縄一(それはおそらく日本一)高いのだ。台湾から肥料・飼料を輸入できれば、日用品を輸入できれば、町民が直接利益を享受できる。しかし、与那国は不開港で、簡単に外国船が入ることができない。宛にしていた台湾の船業者も、コストの面で難しいと言い始める。いつも彼の目の前には苦難ばかりだ。通常なら諦めてしまいそうなところだが、彼は諦めない。理想実現のための手段を、ハイエナのような嗅覚と執念で探し回る。そして町議会議員選挙直前に、待望の肥料が台湾から高雄、那覇経由でやってきた。

八重山毎日新聞記事
http://www.y-mainichi.co.jp/news/16726/

 そして彼は町議会議員選挙に出た。どちらかというと無骨で、愛想がよいほうではない。冒頭、苦戦が伝えられていたが、結果をみれば、見事当選。一年あまりの浪人生活が報われたというものだ。信念に向かってつきすすむ彼の姿勢は、見習うところばかりだ。正確に言えば、僕は彼の政治的主張のすべてに賛成しているわけではない。それでも、僕は彼を100%支持する。ともすれば自己保身と利権ばかり考える人間が多い政治家のなかで、こういう信念の人こそが、町を変えるのだ。

町議になったある男のこと

 いまもときどき花蓮市郊外にある山の中のカラオケ屋で、酒をのみながら、筆談で熱く島の未来を語る彼のことを思い出す。なんどお得意の「乾杯」を聴いたことだろうか。僕はこれからも弟分として彼を応援する。

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Posted by 仲村オルタ at 22:58
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